(1)天然の要塞
瀬戸に浮かぶこの美しい柱島にも、第2次世界大戦(太平洋戦争)中は、島の内外に戦争の影が漂っていた。金蔵山の頂きに向かうと、山頂のすぐ近くにうすよごれた水を貯えた水槽と、こけむしたコンクリートの残骸が見える。ここには、第2次大戦中、海軍の見張所がおかれていた。その建物の中には望遠鏡・聴音機が備えられ、探照灯(サーチライト)で夜空を警戒していたのである。
本土から20数キロも離れた、平和なこの島に軍隊が駐留していたのには理由がある。当時、軍艦の多くは、広島の呉にあった海軍工厰で建造されていた。この呉から直線で約28kmという近距離にある柱島群島近辺は、軍艦の絶好の停泊地とみなされていた。穏やかな海、深い水深、柱島12群島と屋代島(大島)、情島等に囲まれたいわば天然の要塞であった。
柱島の南側海面には、陸奥・長門・扶桑・山城・日向・伊勢の六艦がいつも停泊していた。終戦まじかには、主砲3本ずつを3か所に備えた戦艦大和や武蔵も見られた。その砲身の直径は48cmもあり、人ひとりくぐりぬけることができるくらいだったという。
(2)駐留海軍と戦時下のくらし
1942(昭和17)年の日本の運命を決したともいえるミッドウェー海戦、この日米海戦の前に、ここ柱島沖に日本海軍の航空母艦4隻をはじめ、巡洋艦、駆逐艦等40数隻が集結し、出撃命令を待っていた。その様はまるで海を埋めつくさんばかりの壮観さであったという。
柱島には海軍1分隊、およそ30人が駐留していた。兵曹長が隊長をつとめ、兵隊は買い出しや連絡などのため、度々山に登ったり、降りたりしていた。軍艦や軍事施設を写真にとることは厳禁されていたが、子供には兵隊がいろいろ話してくれた。軍艦から水兵が降りて、学校のグラウンドで銃剣術・剣道・すもうの軍艦別大会をやったことがある。また浦庄では、海軍が新兵の水泳訓練をよくしていた。泳げない者をせっかんして死なせたこともあるという。
南方洋上で悲壮な最後をとげた山本五十六司令官も柱島を訪れたことがあった。ここには、呉の鎮守府や軍艦との直通電話も設置されていた。
戦時中もここは農作物や海産物が豊かであったので、食べものにはさほど困らなかった。ただ、酒・衣類・紙などの日用品は配給制であったので不自由した。
(3)「陸奥」爆沈
1943年(昭和18年)6月8日、正午すぎ、その日は雨だった。「ドーン」というにぶい、ゆするような音がして柱島の旗艦ブイに係留されていた戦艦「陸奥」が爆沈した。陸奥は艦首を上にモクモクと煙をはいて沈んでいった。爆沈の原因はいろいろうわさされたが、今もって謎とされている。沖の方から、重油や毛布などが大量に流れてきた。ほどなく緘口令がでた。また、陸奥の漂流物やひきあげられたものに、近よってもさわってもいけないという命令が出た。1121人もの死者のうち、あるものは浜に流れつき、あるものは潜水夫によって次々とひきあげられた。生存者は350人にすぎなかった。陸奥の犠牲者は、洲鼻で荼毘に付された。この附近には麦が植えられていて収穫期を迎えていたが、約2週間立ち入り禁止となった。
その後は場所を移して続き島(中つづき)で遺体の火葬が続行された。潜水夫が遺体を引き上げてきては焼くという作業が、6月から初冬の12月ごろまで続いた。それで続き島には犠牲者の遺骨が数多くとり残されていた。こうした事態に心を痛めた柱島の有志は、これらの、遺骨を洲鼻に運び、墓をつくって手厚く死者の霊をまつった。その墓は、最初は木製であったが、現在は石づくりの立派な「戦艦陸奥英霊墓」となった。そして毎年、仏式で6月9日(5年に1回は神式で6月8日にも行われる)には、艦と運命を共にした三好艦長の夫人をはじめ、関係者や地元の人々が多数参列して盛大に「陸奥慰霊祭」が催されている。
(4)戦死者と柱島空襲
第2次世界大戦(太平洋戦争)中、柱島の男子青年はほとんど全員が兵隊として出征し、40数名もの戦死者を出した。毎年盆には、先祖とともに戦没者の慰霊のため、これら40数名の英霊の写真を飾り、学校のグラウンドで盛大に盆踊りを行っている。
柱島12群島のうち、有人の柱島・端島・黒島の三島は何度か空襲にあった。これは近くに軍艦が多数停泊していたことと、軍事施設があったためと思われる。中でも、終戦まじかの1945年(昭和20年)7月24日の空襲が最大のものだった。
柱島は、前浜、学校附近が25ミリの機銃掃射を受け、浦庄にあった海軍の修理工場には2発の爆弾が命中して半壊したという。島民の中には漁に出ていて機銃掃射を受け、海にとびこんで一命をとりとめた人もあった。
この爆撃で隣りの端島・黒島は合わせて死者28名、負傷者6名という痛ましい犠牲者を出しているが、柱島は、辛い死傷者はいなかった。学校は、屋根、壁、ガラス等に被害を受け、探照灯も壊され穴があいたという。
数日後の8月6日、広島に原子爆弾が投下され、20数万人の犠牲者が出たのであるが、あのキノコ型の原子雲は柱島からもはっきりと見えたそうである。
「正直なところ、空襲のあいまを見て、松根油(まつやに)を山へとりに行ったり、鉄くずや仏壇の仏具、真鋳(しんちゅう)を供出するような状態では、とても戦争に勝てそうにないと思いましたよ。」とその当時のことを述懐された人もおられました。
ほどなく、昭和20年8月15日、玉音放送があって終戦を迎え、柱島にもまた平和な日々がよみがえったのである。